1990年10月3日のドイツ再統一後、当初は1989年にベルリンの壁が崩壊した日である11月9日が国民の祝日に指定されていた。ところが、この日は1923年のヒトラー・ルーデンドルフ一揆、1938年の水晶の夜がそれぞれ起こった日でもあり、祝日とするのは不適切であると考えられたため、再統一ドイツが成立した10月3日を国民の祝日とした。
※ドイツの歴史における11月9日については、「特異日」も参照すること。
1990年の展開[編集]
第二次世界大戦以来はじめて、ベルリンの帝国議会議事堂へドイツ全土から選挙された国民の代表が入っていった。統一条約の第2条において10月3日の「ドイツ統一の日」(Tag der Deutschen Einheit。1990年以降のもので、Deutschen の D が大文字となっている)をドイツ連邦共和国における法律上の祝日とすることがうたわれており[4]、これによって連邦法でも10月3日をドイツ統一の日として祝日とすることが定められている。連邦としての国民の祝日はこのドイツ統一の日のみであり、ほかの祝日は連邦州ごとに定めたものである。
10月3日を選んだ経緯として、東ドイツは1990年の一連のできごとを受けて経済や政治の崩壊を恐れたことからできるだけ早い期日を目標としており、東西ドイツとアメリカ合衆国、ソビエト連邦、イギリス、フランスの2プラス4による協議の結果が欧州安全保障協力機構の外相会合において報告されることになっていたのが1990年10月2日であったため、もっとも早く統一できる期日というのが1990年10月3日水曜日だったのである。またこの年の7月上旬には東西ドイツの両政府のあいだで、東ドイツ各州の議会選挙を10月14日に、再統一ドイツの連邦議会選挙を12月2日にそれぞれ実施することを決定していた[5]。この結果、統一条約のための協議中に両国内において選挙法や日程といったことが議論となった。他方で東ドイツでは経済情勢が目に見えて急速に悪化し、そのため同年3月に行なわれた人民議会選挙のあとに閣僚評議会議長となっていたロタール・デメジエールは東ドイツ各州の西ドイツへの編入を急がせていた。ところが8月上旬に、西ドイツの連邦議会において再統一ドイツにおける総選挙の期日を10月14日に早めることに失敗し、結局は12月2日に実施することとなった。選挙の共同実施や選挙法の整備といったものは予定通りに進んでいたが、選挙人名簿は遅くとも投票日の8週間前までに作成されなければならず、この期限は1990年10月7日日曜日となった。選挙人名簿の規定によりすべての有権者は、選挙区域となる州に40週以上居住する市民でなければならなかった。このため「連邦政府は10月2日以降の期日であれば統一を受け入れる」という閣議決定により東ドイツ諸州が西ドイツに編入するもっとも早い期日が定められた。統一の期日の決定は8月22日午後9時に開始された人民議会の特別会議でデメジエールが表明した。激しい議論ののち、日付が変わった8月23日の午前2時30分に人民議会議長ザビーネ・ベルクマン=ポールは以下のように述べて採決の結果を報告した。
(日本語仮訳)人民議会は1990年10月3日より、ドイツ連邦共和国基本法第23条の規定に従って、ドイツ民主共和国を同法の効力のもとに編入することを宣言します。これはみなさんのお手元の印刷物第201号に提示しております。投票総数は363でした。このなかに無効となる票はありません。294名の議員が賛成票を投じております(CDU/DA、DSU、FDP から大きな拍手が起こり、SPD の一部の議員は立ち上がった)。
62名の議員が反対票を投じ、7名の議員が投票を棄権しております。議員のみなさん、これはまさに歴史的事件であると私は思います。私たちは軽くはない決断を下しましたが、これはドイツ民主共和国の市民に対する責任を果たし、有権者の意思に適うものであります。政党の垣根を越えて意見を集約し、今回の結果を導く努力をされたすべてのみなさんに私は感謝を申し上げます。
議会の決定後ただちに、社会主義統一党/民主社会党 (SED/PDS) 議長のグレゴール・ギジは声明を発表し「議会は1990年10月3日にドイツ民主共和国を破滅させることを決したに過ぎない」と応じた。