英語版ウィキペディア(えいごばんウィキペディア、English Wikipedia)は、によって執筆?編集されているである。に設立された最初のウィキペディアであり、現在に至るまで様々な言語のウィキペディアの中で最大規模を誇る。 時点では、存在する全言語のウィキペディアの記事のうち、約22%強が英語版である。までは、この割合は過半数を占めていたが、他言語版の記事数の増加により、その割合は徐々に低下している。 2006年午後11時9分()に総記事数が100万件を突破し、日本ではでも取り上げられた。当時は毎日約1700項目の新着記事があった。2009年8月17日に300万項目を達成した、300万件目の記事はノルウェーの女優の記事である。8月時点では、約336万件以上の記事が存在する。英語版の記事数は他の言語版に比して常に圧倒的な量を保持してきた。これについては、そもそもの母語話者人口の多さのみならず、編集者が世界中から集まったうえで情報を持ち寄るという、ならではの強みも加勢している。更には、ある程度以上の経験を積んだ参加者らが「昇格」というような形であらゆる言語版から集まってくるという現象も伝統的に知られており、これも強みの一つである。 により、記事に対してのが行われている。 2010年5月13日、ユーザビリティ調査を基にユーザーインターフェースを更新した。 論争 英語版ウィキペディアには、(米語)、、など、どのの英語で記述するのが適切かという課題がある。特には綴りの違いの問題である。これはにおけるとの問題、あるいはにおける各種方言の使用についてのそれと類似している。 これについては、1つの英語にまとめる、英語版ウィキペディアを各方言で分割するなどの提案が出されもした。事実上の方針となっているのは的な記事はその地域に適切な英語を使用するというものである。例として、「」を表す「カラー(Color)」という単語は、関係の記事内においてはイギリス式の綴りを尊重し「Colour」と記すことが推奨されている。他の記事は英語の種類が記事の中で一貫している限りは、あらゆる種類の英語を認めている。 「英語版ウィキペディアとの精度は同じくらい」と報じた英誌に対して、ブリタニカが撤回を求めるなどの動きも見られる。 英語版では、2国間以上にまたがるデリケートな問題、例えば?やに関わる項目(やなど、現在でも帰属関係が係争中の領土)に関しては、互いの国の立場の同士でしばしば壮絶なが巻き起こったあげく、結局保護扱い記事にされる例も少なくない。 これは、上で事実上のとして、また英語が多くの国で使われていることにも起因する。が英語の国が5カ国以上存在するのも原因のひとつである。内容が英語で記述されているということは、それだけで引用元としてさまざまな方面からリンクしやすいということに繋がるからでもある。そのため、ユーザの所属する国と政府の主張に合致する方向での内容の書き換えが起こりやすいという問題を孕んでいる。
斜里町 - Wikipedia
知床市問題 においては当初網走市主導の「網走市?(現?)?(現?大空町)?小清水町?斜里町?清里町」の6市町村での合併を目指したのだが、網走市以外は賛成しなかった。それぞれ生活圏の違いなどから法定協議会を立ち上げることはできなかった。 その後、斜里郡下3町での協議をすることになったのだが、清里町が離脱し、任意の協議会も設立できなかった。 同時期に近隣の根室管内中標津町および羅臼町の飛び地合併の協議における「知床市」問題が起きた。中標津?羅臼両町が合併協議における新自治体名として「知床市」を候補としたのである。これは全国からの名称公募の結果による。これに危機感を抱いた斜里町も町名に関する町民アンケートを実施したが、結果は「斜里」という現状の町名維持の意見が「知床」等を含む町名変更をわずかに上回った。それを受け斜里町は名称変更を断念すると同時に両町に自治体名として知床を使わないように申し入れた。 知床が全国有数の観光地で国立公園でもあり、またに代表されるように以前から斜里町の町政はマスコミの注目を浴びてきた為、知床市問題の報道は地元での論調以上に過熱していった。 羅臼、中標津両町はこれを受け名称決定を延期。1か月後、合併協議会は名称を無記名投票で決めることとした。知床ブランドの魅力や中標津空港の改称問題もあり「知床市」の名称にこだわる中標津側と、斜里町への配慮から知床に冠をつけ「栔彩小工趣工毪伽趣工肓_臼側の意見は拮抗していたが、最終的には「栔彩小工藳Q定した。この決定は知床の名称を独占してしまえば、長年知床を共有してきた斜里町との間に、軋轢が生じることを憂慮した羅臼側の意向を、中標津側がくんだものである 斜里町側では当時の斜里町長が「共有財産の知床の名を、一自治体名に軽々しく使うべきではない」と発言し抗議するなど、斜里町側の反発は根深く大きかった。だが羅臼町は法的拘束力のない斜里町の申し入れに対し真摯に対応を検討していた。その結果斜里町内では羅臼町の斜里町への配慮を受け入れるべきという声が聞かれるようになり、中標津側も譲歩している事実を考慮すべしという意見も聞かれるようになってきた。それを受け最終的に午来町長は町議会全員協議会において翻意し、冠のついた「栔彩小工蛉菡Jした。また議会も全会一致でそれを承認した。 最終的には中標津町民の6割が住民投票で合併そのものに反対した結果、合併は破談となり知床市問題は避けられた。 合併断念の原因は地理的に距離のある飛び地合併であることなどであり、知床市問題は合併断念の直接の原因ではない。 また斜里町民の側からも斜里郡三町を念頭に置いての合併断念と知床市問題はそれぞれ異なる問題として認識されている。 平成の大合併では同じく世界遺産である近郊で問題が起き、新自治体名が主因となって合併が断念された。 このような問題は白神市の他、、等でも発生し、新自治体名が問題になって合併そのものが断念された他の例と知床市問題は混同されやすい。 しかし前出のように両町の合併は名称以外の問題が主因となって断念されており、異なる性伽螁栴}である。知床の名称問題も合併断念以前に自治体同士の話し合いなどにより解決していたため、それが発端の感情的対立が尾を引くことにもならなかった。
オーバーン (メイン州) - Wikipedia
オーバーン(: Auburn)は、に属する都市であり、同郡の郡庁所在地である。ルイストンオーバーン都市圏に属する2つの主要都市の1つであり、での人口は23.055人で、州内では人口で第5位である。とはアンドロスコッギン川を隔てて対岸にある。 歴史 オーバーン市のある地域は元々、とイギリス人開拓者の間に和平をもたらしたポーツマス条約に続いて、1714年にとからの共同事業者が購入した土地であるペジェプスコット買収の一部だった。しかし1736年に議会が、に従軍した退役兵のために、この土地の多くの部分を認可した。この所有権の混乱のために訴訟が長引いた。最終的に(1754年-1763年)の後まで開拓が遅れることになった。 1786年にミノー市の一部として最初の開拓が行われ、1802年に自治体に編入された。オーバーンとしてはに独立した自治体になった。「オーバーン」という名前は明らかに、1770年に詩人が著した『見捨てられた集落』(The Deserted Village)に出てくる地名から採られていた。当初はに属していたが、1854年にアンドロスコッギン郡を創設したときにその郡庁所在地になった。1852年に隣接するポーランドの町の一部、1873年にミノーおよび、1867年にダンビルの全て(当初はペジェプスコットと呼ばれた)というふうに周りの町の土地を併合してゆき、面積でメイン州最大級の自治体に成長した。1868年には市制が布かれ、1917年には市政に市政委員会?シティマネジャー方式を採用したことではメイン州で初の都市になった。